終わりがない

ちらかって片付かない日々。車、バイク、カメラ、自転車、ギター、ガレージ、旅、その他。

古い車、手間暇。

f:id:thambar:20170302184807j:plain

我が家には何台か車があって、現代的な車は1台のみ。あとは手のかかる旧式な車ばかり。そのすべてにナンバーが付いて走れるのだが、最も古い物になると1968年式と、まあとにかくランニングコンディションとするには手間暇が「かかりすぎる」。

古い車が好きですかと聞かれれば、好きと答えると思うけれど、新しいモノに興味が無いわけでは全くない。むしろ、全方位に興味があって財布がエラいことになってしまう。そしていろんな車を乗り継いで、いまに至っている。考えてみれば、なんで古い車ばかりになっているのだろうか。

元々車のエンジニア出身で、走らない車なんて車じゃないと思う。もちろん人それぞれで眺めてるだけでよいという気持ちもわからなくもない。けれど自分は走らせたいのだ。

車は何万点という部品の集合体であり、設計思想に沿い、それらがバランスしてはじめて公道を走れるモノになる。工場のラインを出たのち、そのバランスは使用とともに確実に狂っていく。消耗品の劣化、耐用年数に至ったり、それは箇所によってそれぞれだ。古い車はただでさえ長い年月が経過している。新車時のフィールなど望むべくもない。走らせようと思えば、それ相応に手間暇がかかる。

一方モノには減価償却という考え方があって、いわゆる市場での流通価格を著しく超えるようなメンテ費用や時間をかけたりすることは、言ってみれば損な行動かもしれない。

常日頃、すべての車が手元にあることは珍しく、何かしらの不具合を修正するために修理屋さんに預けている。はっきりいって大変。コンクールコンディションまで仕上げることに興味もお金もない。ただただ走らせたい。そして機械である以上、完全バランスとまではいかずとも、ウエルバランスのところまでは手を入れたい。走行上重要な部位に痛んだ箇所があっても少々は走るが、自分が機械だったらやはり嫌だ。

結果的に古い車ばかりになってる理由は、おそらくシンプルなせいだろうと思う。手を入れたことに対するリターンがわかりやすいし、現代車のように利便性を追った装備がなく、制御が緻密でないのでブラックボックスとなりうるものがないので手を入れやすい。そしてだからこそ直して乗ることができる。スタイリングも車の構造も、そう"計算"らしきことができる時代の代物ではない。思い描くカタチに現代よりは直結しやすかったのかもしれない。そこに惹かれるのだろうと思う。

きちんと手を入れて、物事の「粒」が揃い、滑るように走る。
なんとも言えない、何にも代えがたい、そして説明不能なテンションの上がり方。「もうこれ1台でいいな」と心の中でつぶやく。実際はガレージに収まるなら収まるだけ捨てられずに置いてしまうのだが。。。