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終わりがない

ちらかって片付かない日々。車、バイク、カメラ、自転車、ギター、ガレージ、旅、その他。

ムーブメントを作るもの、支えるもの

世にムーブメントが起こると二時曲線的に盛り上がるだけ盛り上がって、どういうことだか一気に冷めてしまう。今年で45になるが、車とバイクで象徴的なムーブメントについて考察してみたい。

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1987年登場、NSR250R(MC16)。当時「こんなバイクを公道で走らせていいのか!」と驚いたものだ。驚いたなんてものじゃない。まさに頭をぶち抜かれるような衝撃だった。まだ「レーサーレプリカ」なんて言葉がなかった頃の出来事。当時WGP500ホンダのエースライダーは、ワイン・ガードナー。85年に250と500でWチャンプに輝いたフレディ・スペンサーが怪我で戦線離脱しているなか、実質的なエースライダーとなったガードナーのために開発のウェイトが傾き、その期待に応えるようにガードナーは勝利を重ね、87年のチャンプに輝いた。

当時は今のようにネットなどないし、TV中継も無いに等しい。情報は雑誌でしか入ってこない時代。食い入るように雑誌の行間まで読んでいた。WGPのレースマシンを見慣れている目で市販車を見ると、もう贅肉だらけのマシンにしか見えなかったあの頃。そこに現れたのがNSR250Rだった。

この通称ハチナナから、レーサーレプリカブームが始まる。おおよそ3-4年だろうか。当時は大型免許という枠組みがなかったため、中型免許で乗れる250ccと400ccのカテゴリで、毎年モデルチェンジが敢行されるという狂気の祭り。街を走れば、革ツナギを来たレプリカ群がわんさかと走り、六甲山(神戸)に行けば走り屋渋滞が起きる始末。

しかし87年を起点に、4-5年も経つとカウル無しのネイキッドに流れが傾いていった。その後はドレスアップを主流としたスポコン的なもの、同じ流れにあるビッグスクーターブームなど。いわゆる多様化と言ってしまえばそれまでだが、それにしてもレーサーレプリカブームは少々異常だった。いったいあれはなんだったのだろう。

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89年には、車の世界も変革が起きる。スカイラインGT-RBNR32)の登場だ。仏壇のようなインパネにハリボテのようなボディ。おおよそ洗練さからかけ離れた日産車に、超感覚なんてキャッチフレーズをひっさげてこんな車が登場したのだから驚いた。(ちなみにこのキャッチはベース車となった8代目スカイラインのもの)。

当時Gr.Aという市販車ベースのレースカテゴリーが存在し、ここで勝つために全てをフォーカスし、長らく途絶えていたGT-Rという称号を復活させるために生まれた車。そしてこの車の登場から、世界中のスポーツカーが変わったといって過言でない。なぜなら、走りについて一家言あるあのポルシェですら930の時代なのだから。

バイクのレーサーレプリカブームと時をほぼ同じくし、街にはやはり車高の低い車があふれた。しかし時が流れるとやはり、盛り上がりを思えば驚くほどに一気に廃れていく。街を代わりに占拠したのは、ほぼ空気を運んでるに等しい箱バンのRVブームだった。

車やバイクの世界は20年周期で変化が起こるように思う。これは技術の革新や蓄積から、こんな周期になるのだろう。それにしても、NSRやR32GT-Rが作り出した変化は、他と比べられないような熱量があった。なぜなのだろう。

思うに、生まれてきた志がシンプルだった。NSRは「出しちゃえ」というノリだったのかよくわからないが、それに近い物を感じたし、GT-Rは前述の通り、全てが勝つためにフォーカスされた車だった。余談だが、スカイラインには4ドアセダンがあったが、GT-Rの開発の関係があり、猛烈に窮屈な後席を強いられる「4ドアセダン」だった。それでヨシとされたのだろう。いまならどうか。もう少し小器用にやるだろう。なにせ、いまはメーカーの間を跨がってシャシーをプラットフォーム化してるような時代なのだから。

たとえば、いまの車はどうだろう。スーパースポーツと呼ばれる車種を見ても、もう一般ドライバーが制御できないような高性能さだ。電子制御の力を借りなければ、まともにガスペダルも踏めない。たとえば2WDで600馬力近い出力を受け止め、サーキットに行けば驚速のタイムを刻むことができ、その帰り道はエアコンが効き、渋滞でぐずることもなく、負荷がかかってない状態であればエキゾーストに栓をして排気音を絞って走る。

技術はいろいろなものを叶えてくれるが、技術は道具だ。世の中いろいろと高度化・緻密化を突き進むし、それそのものは悪いことではない。恩恵も素晴らしい。だが、それが「全て」となると、また違うと思う。

高度化・緻密化という言葉で遊ぶと、その傍らで捨て置かれたものを、今一度マージして、もうひとつ上の段階での高度化・緻密化を目指すのはどうだろう。

時代が、背景が、、、いろいろ有る。
しかし、古今東西、やはり大事なのは「志」ではないだろうか。高度化・緻密化すればするほど、このように定量化しづらいものは余計に見えづらい。だからこそ、そこにシンプルに向き合うこと、これがムーブメントを作り、そして支える源泉になるのではないかと思うのだが。